中小企業診断士 伊東伸のプロフィール
地方の小さい会社と自営業者を応援する経営コンサルタント  伊東コンサルティングオフィス
      中小企業診断士  伊東 伸
〒620-0942 京都府福知山市駅南町2丁目170
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伊東伸 の詳しいプロフィール
 
ご関心を抱いていただき、ありがとうございます!

個人経営コンサルタントの最大の魅力は、個人の過去の経験に他なりません。
僕の生い立ちから現在までを少し知っていただくと、僕の話は、もっとスムーズに、あなたの胸に届くことでしょう。
  
 
■生誕〜

●1962年(昭和37年) 京都府福知山市に生まれる


厳密にいうと、生まれた病院は母の実家のある綾部市。
JR職員(当時は国鉄と称してました。)を父に持つ、ごくごく普通の家庭の長男として生を受けました。
昭和37年10月18日のことです。

幼い頃の記憶はあまりありませんし、家にカメラが無かったので、写真もほとんどありませんが、福知山市の狭い路地を通ると、「どこかで見た景色だな。」と、懐かしい感覚が蘇ってくることがあります。

  

●福知山市で成長


住んでいたのは、福知山市の西岡というところ。それからずっと、この町内に住み続けています。

ちなみに今の住所は駅南町となっていますが、これは福知山駅周辺の再開発によって、住所表記が変わっただけなのです。

それから、惇明小学校 → 南陵中学校 → 福知山高等学校と、地域内の公立学校に通いました。

格別に記すような大きな出来事はありません。
それなりに勉強をして、それなりに遊んで、と、どこにでもいるような子供でした。

   

●同志社大学商学部へ


いくら田舎でも、高校3年生にもなると、大学進学を真剣に考えねばなりません。

決して裕福な家庭ではありませんでしたし、比較的成績は良かったので、「国立大学に入れれば。」というのが親の望み。
僕も「そうすべきだろうなあ。」と考えていました。

それで、共通一次試験(今のセンター試験のようなもの)を受けたのですが、ちょっと失敗。

そりゃあ、そうです、田舎モンですからねえ。
受験に京都市まで行く、そこで宿泊もする、となると、緊張やプレッシャーがあってあたりまえ。
何せ、京都市に行くのさえ2回目くらい、宿泊というと、修学旅行しか経験なかったですから。(笑)


ということで、希望していた神戸大学はたぶんムリなので、滋賀大学を受験することにしたのです。


それとは別に、京都の立命館大学と同志社大学を受験していました。今から思えば、2校だけというのはリスキーな選択なのですが、このあたりも、世間知らずだったからなのでしょう。

私立の受験はまったく問題なく終了。
1ヶ月前の共通一次の経験が活きたのか、ごくごく自然に受験できた記憶が残っています。

結果、私学は2校とも合格。
ここで、「もういいか。」という感覚が生まれ、結局滋賀大学は棄権ということに。
(進路担当の先生には、強く叱られましたが...)

 

●同志社大学商学部へ


はじめての一人暮らし。
それまで台所に立ったこともありませんし、ロクに買物も行ったこともありませんでしたが、そんな不安も、大学の仲間と一緒にいる面白さで吹き飛んでしまいました。

学校には毎日通っていましたが、授業は欠席しがち。
数百人の大教室が半分も埋まらず、マイクを握って講義をされる教授の姿に、授業の意味を見失ったものです。

こんな授業に出るくらいなら...と。

大学紛争も関係なし。
サークル(珠算研究会、今でも2桁の掛け算くらいは暗算でできますよ。)があった建物には、それ用のヘルメットもありましたし、学校と団体交渉をする知り合いもいましたが、そういったモノに熱くもなれません。

当時の学生の多くがそうだったように、僕も友人と遊んだりバイトに行ったりと、社会に出る前の儀式のような大学生活を過ごしました。


「もう少し勉強しておいたら良かったかなあ、もったいないことをしたかなあ...」と思ったのは、会社員になって数年してからのこと。よくある話です...

ちなみに、僕はずっと今出川校舎。
ちょうど田辺校舎が開設された頃に学生でしたが、田辺校舎の経験はありません!

 
■サラリーマン〜

●1985年 同志社大学商学部卒業
     村田機械株式会社入社



あまり深く考えずに就職。

唯一の条件は、大学在籍時に父が亡くなったこともあって、京都で勤務できて転勤が無い、ということ。

その条件で就職活動していたとき、人事担当者に「?」という顔をされたことを覚えています。(後年、その担当者とお出会いする機会がありましたが、当然覚えておられませんでした。)

 

●こんな仕事、あんな仕事


入社当時は、会社が急成長の時期でしたので、新人ならではの雑用から、「ここまで任せてもらえるの?」というくらい重要な仕事まで、さまざまな業務を体験しました。

それからも、事務系の仕事に携わってきましたが、日々の事業活動のフォローというよりも、特別な案件を担当する機会が多かったです。

 「ちょっと誰かに調べさせてくれ。」
 「じゃあ、伊東にやらせましょうか。」

こんな会話が上の方でなされていたようで...


1985年 入社後、経理部財務課に配属。
     同販売管理課を経て、
     業績管理システムの開発プロジェクトに参画。
     システム開発完了後は、
     全社予算管理と特命事項を担当する。

1994年 事務管理部門の組織及び業務担当再編を企画し、
     事務処理集中部門を担当とする
     業務センターを新設、転属。
     責任者として、15名の部下の指導にあたる。

1996年 総務部転属、部下6名。
     人事労務管理企画を担当し
     人事労務処理のシステム化推進、
     人事諸規定の新設、改変を行う。

1998年 経営企画室の新設に伴い転属、
     経営企画室長拝命、部下5名。
     社内電子化の企画推進、
     社員証カードシステムの導入、
     合弁会社の設立、
     他社買収に伴う交渉、社内調整などを行う。

1999年 情報機器事業部業務課に転属、
     課長拝命、部下5名。
     事業部長(現社長)補佐として、
     事業部の商品開発から生産計画、予算管理まで、
     幅広い分野に関わり事業部運営をサポート。
     また、販売子会社には、
     成果主義人事制度を企画導入する。


数千人の会社での経験は、仕事に関連した知識、物事の道理や考え方、従業員の意識格差などの事項を中心に、僕の財産となっています。ホントウに大感謝!です。
 
  

●ストレスに弱い?


仕事だけじゃなく、ストレスから体調を崩すこともしばしばありました。なかでも厳しかったのは、顔面の皮膚病とパニック障害。今だから話せることです。

前者は3年くらい通院して、あれこれと実験的な治療も受けましたが、治りかけては再発の繰り返しで完治せず。
痛みも痒みも無かったのですが、見た目が悪くて....
その後、水疱瘡に罹って入院したときに完治するという、何とも不思議な病気でした。

後者は、電車に乗ると息苦しくなるという症例。
誰かと話をして乗車するときは大丈夫でしたが、1人のときには、特急や急行には乗れなくて普通電車オンリー。
それも、扉付近で外の風を少しでも感じて、というもの。

漫才師の中川家のお兄ちゃんの方がこの病気になったことがあるということで、今だと、かなりの人がわかってくださりますが、当時は、厳しい周囲の眼がありました。

途中下車してホームで休憩して会社に電話を入れると「伊東さん、今日も遅れて出社ですか?」っていわれ、会社に行くと「何してた?」っていわれ...

そりゃあそうでしょうね。
病気だと思わなかったら、単なるサボリですから。

こんなことも、今となっては笑い話です。

 

●中小企業診断士の資格取得


経営企画室の仕事をしていたときに取得。
比較的時間の自由度も高かったし、過去の仕事の経験から、一番適している資格だったのがその理由です。

専門学校へ通学するお金がもったいなかったので、ネット上の受験サイトの仲間と意見交換をしながら独学で、運よく試験に合格することができました。

あ、そうそう、この時に事件がありました。
当時の試験制度では、2次試験の合格後、2週間ぶっ続けの実務研修というものがありました。当然会社を休まねばならないのですが、2週間の休みについて、上司の役員と×××。

このときには、この資格を活かして独立しようなんてことは、まったく考えていませんでしたが、「だったら取得する必要がないだろう!」と、いわれたときには寂しかったですね。

これも、今となっては笑い話の一つです。

 

●2001年に退社


2000年問題もクリアし21世紀。
「いつかはこの会社を辞めて田舎に戻るんだろうな。」と、ずっと抱いていた感覚を実行することに。

5年前に田舎に家を建てていましたし、「会社を辞めるのなら、40歳までじゃないと。」と思っていましたので、子供が小学校に入学することをきっかけに決意。

先祖代々の田畑があるのか?、家が商売をしているのか?、と尋ねられることが多いのですが、それはまったくありません。

「僕自身が田舎の空気が好きだ。」という、非常にわがままな意見を周囲に受け入れてもらったのです。


会社には、何の不満もありませんでした。
先にも書いたように、とてもおもしろい仕事を任せてもらっていたし、給料や地位も満足していました。

俗にいう、出世のレールの先頭グループにいたのですから、それを自ら降りるというのは、まれなケースです。
「サラリーマンとしては、もったいない...」という意見もたくさん聞かされました。

ですから、もし会社に残っていたなら、もっと面白い仕事ができたのかもしれません。
ですが、ストレスでボロボロになっていた可能性もあります。(こっちの方が高い。)


ボロボロになったときに退社しても、荒んだ心では良い仕事は絶対にできません。僕自身は、最高のタイミングで退社できたと思っています。

   

●何で、経営コンサルタントになったのか


一言でいうと、一番自分に適していると思ったから

田舎に戻る場合の選択肢としては、
(1)そのまま会社勤めを続ける
   → 通勤条件が厳しいのでムリ。

(2)田舎の会社に転職する
   → 不況の真っ只中ということもあって、
     面白い仕事&賃金の条件を満たすところがない。

(3)自分で何か事業を起こす
   → やれること、やりたいことは、1つだけ。

ということで、半ば必然的に決定した感もありますが、職業選択というのは、こんな例が一般的だと思います。
選択時よりも、選択後が大事なのですから。

 

●何からすべき???


経営コンサルタントとして独立しようというのは決めた。
次は、会社を辞めて困らないように、いろいろと準備をしなければ。


ということで、まずは...
 ・自分の売りは何?
 ・どういった支援メニュー?
 ・お客さんは、誰、どこ、料金はどうする?
などなど、会社員としての仕事をしながら、少しずつイメージを固めていきました。


でも、やってみないことにはわかりません。このときに考えていたことは、今から思えば中途半端だったと思います。

ちなみに、創業セミナーなどで、創業希望者の話を聞いたり、アドバイスをすることが多いのですが、当時の自分を思い出しながら、「もっと準備しておくべきだったなあ。」と、自分を反面教師として、お話ししています。
 

●勝算は?


不思議なことに、あまり考えませんでした。

単純に、北近畿の人口や産業状況から、それなりの市場規模が見込めましたし、そこで活躍している経営コンサルタントがいないことは調べていましたので、「大丈夫じゃないかなあ。」と、とても楽観的に考えていました。

しかし...それは、今から思えば無謀な考え。
競争がない=市場が小さい、って考えなかったから。



会社の仕事に独立準備に引越しの準備。

これだけでも、かなり慌しいときに、家内が、血小板の数が減少し出血しやすくなるという病気(突発性血小板減少性紫斑病)で入院。
子育てと家内の見舞いが最優先となったので、独立準備をする余裕はまったく無くなりました。

  
>>独立後の話を読む
  
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